2021年4月9日 星期五

287 日本漢學家《青木正兒全集》簡介,以今冬心的藝術為主;北京風俗圖譜



1.日本東北大學珍藏近百年的117幅北京風俗圖片首度公開
2.日本著名漢學家青木正兒、內田道夫與中國著名畫師劉延年等強強聯合而成的圖譜,全面完整地介紹北京風俗,品味千年文化都城的古韻。
3.留存逐漸消失的北京風俗,重現近百年前的老北京人生活。
4.王冶秋、老舍感慨“中國也沒有這麼全的風俗圖譜”
5.揚之水作序推薦,並言“以圖譜的形式詳細介紹北京風俗,我所知道這是唯一一部”。
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風俗圖譜(帶書匣版)精裝彩色版
彩色版,以一百餘幅彩畫廣泛地反映了民間傳統活動




  • 青木正児全集春秋社、1969-75、復刊1984ほか
  1. 『支那文学思想史・支那文学概説・清代文学評論史』
  2. 『支那文藝論叢・支那文学藝術考』
  3. 『支那近世戯曲史』
  4. 『新訳楚辞・元人雑劇序説・元人雑劇』
  5. 李白
  6. 金冬心之藝術・中華文人画談・歴代画論・鉄斎解説』
  7. 『江南春・琴棋書画・雑纂』
  8. 『中華名物考・中華茶書・随園食単』
  9. 『酒中趣・中華飲酒詩選・華国風味』
  10. 芥子園画伝』、訳著・神田喜一郎補訂解説


https://www.youtube.com/watch?v=LX5WGkQY1IM






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2020.7.11 我有許多話可以補充
首先是日本作學人全集的做法,很值得參考。
《青木正兒全集》的主編者是吉川幸次郎 (這是品質保證.....)--兩人的漢學路線稍微不同,然而,吉川在高中決心當"漢學家",特地去找青木談.....兩人對中國戲曲都有研究。
日本出版社發行全集/套書的方式也很可參考,通常會另外有附隨的小"報":請請熟人寫傳主,或請學者找舒發高見......等等,內容充實。印象深刻的是,《書道全集 2 漢》的"本卷執筆者"有"小川環樹",可是我在書中找不到他寫了那些。
多年之後,我讀小川 環樹 《論中國詩》1986/2009之後才恍然大悟:
第四章 《鏡銘的抒情成分——漢代文學的一個側面》"的解說,讓我們知道,文中所說的梅園博士作品,在《書道全集 2 漢》(此書台北大陸書局有漢譯),而小川 環樹 的文章,刊在隨書附贈的《月報》,這是日本出版社出版/發行《全集》的獨特方式,我在談《青木正兒全集》中說過。另外,鏡銘的抒情成分——漢代文學的一個側面是1958年稿,距今62年,不知學問推進多少? 


第二有感慨的是,『清代文学評論史』(岩波書店 1950),在1969年有中文版:

《清代文學評論史》( 台北:開明,1969)的序言:黃得時教授(1909~1999)1969年 61歲:發表〈清代文學評論史序文〉(青木正兒原著,鄭淑女譯,黃得時譯序文)(黃得時先生傳【蕭麗華撰述】。此文收入本書。
http://www.cl.ntu.edu.tw/zh_tw/Members/teacher12/-%E9%BB%83%E5%BE%97%E6%99%82-76959313
我在2020年元月才拜讀《清代文學評論史》( 台北:開明,1969),對於作者的淵博和譯者的文筆,都很佩服。我又自問,這樣優秀的作品,台灣為何沒書評?20幾年之後,我在某教授的專書中讀到幾則批評,不過我認為是小毛病。




梁容若(1904~1997)教授:陳淑女學士畢業論文談青木正兒著『清代文学評論史』之指導教授;主編的《書和人》月刊,是60年代起的重要學術圈 (東海的師長 (戴君仁、藍文徵、梁容若、陳兼善、莊喆....)、東海的學生,好幾位是該刊作者:本書收錄陳淑女翻譯三、四篇 〈評美國瓦特遜著《司馬遷傳》和《史記》〉、 〈論語雜感〉、〈 杜甫與李白的詩〉、 〈新五代史的文體特色〉等都刊登於,《書和人》,而 〈評美國瓦特遜著《司馬遷傳》和《史記》〉更是樑教授比較全面評介當時瓦特遜翻譯及著作之一部分。
由於其《坦白與說謊》等書由台灣開明書局出版,所以陳淑女最重要的《清代文學評論史》可能是他介紹的。
梁教授的選題有眼光,譬如本書的吉川幸次郎的〈杜甫與李白的詩〉,就遠比吉川幸收入其《中國詩史》的李杜交遊考好得多。梁教授在該文末對吉川幸次郎的介紹也很簡要(《書和人》有一篇介紹當時出版的《吉川幸次郎全集》,參考鄭樑生教授(1929-2007)〈吉川幸次郎全集〉,《書和人》,1972.11.11)。

讀者也可從陳淑女在〈清代文學評論史序文〉的譯後記中,了解梁教授的貢獻。


徐復觀教授(1903-1981):中國文學、政治思想史、藝術/美學史專家,報紙雜誌時論雜文家。可能是陳淑女的最重要恩師之一。著有《中國人性論史先秦篇》、《中國藝術精神》、《兩漢思想史》、《中國文學論集》、《中國思想史論集》等。

本書相關的「書信卷」,收三封陳淑女問候徐教授的信 (1961 年、1973 年、 1982 年)。介紹青木正兒著『清代文学評論史』(岩波書店 1950)給陳淑女。囑陳淑女翻譯「唐代的繪畫」(摘自〈隋唐之繪畫〉),刊登於《文星》。

青木正兒 金冬心1687~1763 胡適 周作人


青木正儿《中國近世戲曲史》《中华名物考》《琴棋書畫》《金冬心的藝術》試問有錢百萬河東客,可買松陰六月涼?

日本漢學家青木正兒全集簡介 https://www.youtube.com/watch?v=…



287 日本漢學家青木正兒全集簡介

日本漢學家青木正兒(1887-1964), 師事狩野直喜, 内藤湖南等京都支那學家, 一生著作豐碩, 留下全集十本。 HC特別擇其中文藝書畫等篇章, 簡介金冬心(揚州八怪之一)及與胡適等人書信往來, 期能一窺日本漢學家治學梗概。另介紹王.....



「白苧袍,青絲履,清旦山行松里許。松風為我一掃地,忽作水聲吹到耳。耳中生豪但願如松長,此身落落如松強。試問有錢百萬河東客,可買松陰六月涼?」




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 明治二十五年の春、私は赤間関あかまがせき(今の下関)文関尋常小学校に入学した。たしか二年の修身の教科書に「九年母くねんぼ」という話が載っていた。田舎の子供が母から九年母を親戚に贈る使いを言いつけられて、途中風呂敷包を開けてみると九個ある、一個食べておいて、「八年母を差し上げます」と差し出したという話。私はなぜかその話が面白くて、今でもその挿図の子供の姿が眼に残っている。私は九年母が好きであった。味よりもあの香気が好きだったのである。
 あれから三十年、私は父の死後、京都に落着くつもりで下鴨にいおりを結んだ。名づけて守拙廬という。扁額は亡友本田蔭軒君の筆、刻は主人自刀である。少しばかりの空地に植える果樹の苗を数種取り寄せたが、なかに九年母三本を加えることを忘れなかった。それからまた三十余年、他の果樹は育たなかったり枯れてしまったりしたが、九年母二本と柿一本とだけは恙無つつがなく現存している。特に九年母は繁茂して、近来年々三百の実を付ける。初夏には王朝の花橘はなたちばなをしのばせる香が小園に満ち、冬にはトキジクノカクノコノミのように熟れた実が濃緑の葉かげに金色の光を放つ、これが主人自慢の種である。皮ごと竪に二つに割って、横に薄く切り、醤油を滴らして食うと、酒の肴に珍無類、仙気を帯びた異味となる。子供たちは酸っぱいと言って軽蔑し、あの香気の素晴しさを説いて、皮ごと食えと教えても決して食わない。なるほど実の酸っぱいのが玉にきずである。
 このことを山口である人に話して、京都の地味に合わないのだろうと言うと、その人が言う、「幾分そういう関係もあるでしょうが、九年母は蜜柑みかんのように甘くはありませんよ。それは子供の時食べたものは何でも旨かったように思われるのですよ。私の亡父が永らく東京に住んでいて、山口県の楊梅(ヤマモモ)は旨かった旨かったと言いつめておりました。母が、それは子供の頃おあがりになったからですよ、あんなもの旨いはずはありませんよ、と言っても、頑として聴き入れませんでした」と、大笑いしたことがあった。楊梅は私の育った下関の家にもあったし、塩水に浸して虫を出してから食べさせられたもので、なつかしい味の一つであるが、今は山口でもその附近でも一向めぐり会わない。苺や桜桃の流布した今日、あのような野味は駆逐されるのが当然である。九年母にしても段々なくなっていくというが、いくらひいき目に見ても、ネーブルの敵ではない。ただあの皮の香気と実の味とを兼ね備えたところだけは自慢できる。ネーブルの皮は香りはあるが苦くて物にならない。柚子ゆずの皮は香味を備えているが、実は酸っぱすぎて話にならぬ。九年母はやはり香味独絶する。
 子供の頃食べた郷土の味はなつかしい。下関に接近して彦島がある。今は海底トンネルの入口があったり、工場があったりして、昔の面影はないが、私の子供の頃は農村漁村が散在して、麦味噌の名産地、したがってまたその味噌漬は朝の茶漬の食膳を賑わす妙品として馬関バカン(下関)人に愛好された。「せきのお茶漬、出がけにあがれ」とは、口先ばかりのお愛想、人情の軽薄を諷刺した諺であるが、馬関の風俗は、通勤者の家庭はいざ知らず、われわれの家では朝は茶漬、昼に飯を炊くので、学校の弁当なんかも温かいのができると使いが持ってきた。それで少し贅沢なところでは、毎朝早く焼たての蒲鉾かまぼこが茶漬の菜に置いて歩かれた。それはともかく、彦島から娘っ子が「イギース、イギース」と触れて売りに来た。イギスというのは海藻の一種で、それで造ったトコロテンのようなものである。これを厚く切って酢味噌で食べると、すっぱりとして、磯の香がして好ましいものであった。このイギスの味噌漬ときたら珍中の珍であった。まるで羊羹ようかんのような色に漬っているが、塩からくて、一切れあれば一度の茶漬が食えたほどで、私は羊羹などよりこれを好んだ。
 彦島の北方に六連(むつれ)島がある。ここは下関名産雲丹うにの塩辛の発祥地である。小さな島であるが、どうした加減か雲丹が繁殖していて、漁村の副業に塩辛を造っていた。これに目を付けたのが「和田又」という海産物問屋で、全島の出産品を買い占めて、それにアルコールを加えて防腐し、瓶詰にして売り出した。商品として他国に出すには妙法であろうが、雲丹の味はさっぱり駄目になってしまい、しかも和田又が買い占めているために純粋な品が得にくくなったので、辛党であった私の亡父などは憤慨していた。時たま六連島の者がこっそり、今で言えばヤミで売りに来ると、父は喜んで買わせた。私はまだ雲丹の味を知らなかったけれど、色あいは良く、固形が多くて、今言うところのツブウニであった。和田又の子息は私と小学校で同級であり、家業を継いだはずであるが、あの家は今次の大戦で爆撃に遭うて、再起不能に陥ったという噂を聞いた。気の毒なことだ。
 さて雲丹は大人の食うものとして、われわれ子供に適したものにニイナといって、サザエに似てしかも小さな小さな貝があった。夏に家の近くの海で泳ぐ時、もぐっては石崖に付着しているこの貝を取るのが面白く、十数個もたまると持って帰ってでてもらい、木綿針の先で、ぐるっと廻して、ほじり出しては食べる。よい加減の塩気があって磯くさく、旨いというほどでもないが、楽しいことであった。泳ぐ時、底にもぐるとミルがいくらでもあるので、子供たちは取って遊んだ。何にするというでもない、ただ取るのが面白く、あとはそこらに捨てて帰るのである。後年京都に来て驚いた。刺身の妻にミルが付けてある。あんなものを食べるのかと、海に遠い京都の人を気の毒に思った。
 最後に私の最も好んだ海味を一つ付け加えるならば、それはメノクキである。「芽の茎」という意味らしいが、若布の生え始めに芽が五、六寸か七、八寸伸びて、まだ葉の出ない前の茎である。ゆえに完全には「ワカメのメノクキ」と呼んだ。これを適宜に切って三杯漬にすると、こりこりとして歯切れが良く、何とも言えぬ味のものであった。今食ったら、さぞかし酒の肴に珍妙であろうが、いやもう駄目だ。こう歯が悪くなっては。
(あおき まさる、京大名誉教授・中国文学、三六・七)




底本:「「あまカラ」抄2」冨山房百科文庫、冨山房
   1995(平成7)年12月6日第1刷発行
底本の親本:「あまカラ 8月号 第六十号」甘辛社
   1956(昭和31)年8月5日発行
初出:「あまカラ 8月号 第六十号」甘辛社
   1956(昭和31)年8月5日発行
入力:砂場清隆
校正:芝裕久
2019年11月24日作成
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