2021年4月26日 星期一

生命典範的故事 - 李亮欽老師 (沈金標及其文創故事-2)










生命典範的故事 - 李亮欽老師 (沈金標)
http://hanchingchung.blogspot.com/2018/04/blog-post_28.html


沈哥

2018年7月18日 ·

高齡八十的李老師師母

2020.8.30




在東海,我們有許多見證人如同雲彩圍繞我們。我想到了李老師賢伉儷,他們家是影響我信主最大的幫助。每周到李家的查經、夜談是當時窮學生如我的一大享受。李老師在1970年來台宣教,先在台大物理系任教一年,隔年才轉到東海任教。親眼見證他們的人品、家庭說服我信耶穌真是一件美好的事。一直到1980年,倍加團契增長到200人。
當時,我跟另一位李伯伯共同在東別成立福音中心。有一天傍晚,韓裔盧師母慌慌張張地跑來問我:”聽說附近有個醫生,住哪兒?李家的孩子不能呼吸了。”我一聽回說:”不能呼吸要趕緊送醫院。”我以為是哪個李家的小嬰孩…等到我弄清楚是李老師的二女兒佩琴Stephany,就趕緊騎著摩托車載純道一起過去看看。
到李老師家,上了二樓,已經有人在急救,他就是住在附近的中心醫院副院長。約莫十分鐘,醫生說,還是不行,送到醫院再try try…於是我跟純道把佩琴抬到樓下,放在盧師母的旅行車上送醫,其實那時佩琴已經斷氣了…
到了中心醫院急診室,又是電擊又是按摩,半小時後宣告放棄。那時李老師正在菲律賓開宣教會議,打電話通知他回來。我心中一直問:”主啊!這麼愛主的女孩,怎麼才十多歲就把她接去呢?”李老師師母一家的傷痛不在話下。
過不久追思禮拜在路思義堂,校牧魏牧師跟我說,他跟李家不是很熟,要我講追思信息。當時,我提到自己的小妹也是不到20歲,不久之前因病毒侵入腦部卻誤診為感冒,以致病情日益嚴重。後來送台北國泰,也是到院死亡,搶救無效又送回台中。(早些我打電話給台北杜哥,請他去醫院幫我看看,杜哥到醫院時我妹妹已經又被送回台中了。杜哥打電話給李老師,李老師來福音中心找我,按著我的肩膀說……四十年了,難以忘記那痛心的一刻。)
接著,李老師載我回家,剛好妹妹車子也到,李老師幫忙把我妹妹抬下車。我說:”李老師抬我妹妹下車,我抬李老師女兒上車,結果都沒救回她們的生命。但我知道也確信佩琴已經睡在基督懷裡,總有一天在天上還要相聚。而我妹妹卻因沒信主而永隔在另一方…”能不悵然而淚下?
李老師師母經喪女之痛仍然忠心服事,不改其志。他們的生命見證影響了數百青年學子。甚至已高齡超過八十歲,仍然惦念東海的各樣事工。目前新冠毅情仍緊,暫時不能回東海,但每周末仍發起網路禱告會,為東海、為台灣、為世界…禱告。
《我實實在在地告訴你們,一粒麥子不落在地裏死了,仍舊是一粒,若是死了,就結出許多子粒來。》約翰福音12:24




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文創故事-2
前文提及筆者棄建築投入傳道,並非不喜歡建築,更非讀建築有多艱辛。相反的,我倒是讀出了心得,對建築當然也有相當程度的熱愛。
東海建築1971年考進18位,另有3名僑生,共21位同學。我們那班有點特別,不知大家為何如此熱愛建築,或許該說是熱愛”東海建築”,考分都相當高。東海狀元及前三都是班上的女同學,成績都足以進入台大。我是中段,成績離台大最低分只差十分。系主任漢寶德先生破例親自從新生開始帶我們班。
建築系學生的生活因做設計通常是不太正常的,熬夜通宵趕圖是經常的事,清晨踏足晨曦中的東海草地,是輕飄飄的,其實是頭重腳輕。身體也因此受到傷害,我大三得了十二指腸潰瘍,主裡的師父王醫師說這沒藥可醫,必須改變生活型態,還要心情穩定情緒平靜,這我聽進去了,到現在快五十年了,胃疾都沒復發。我做設計,按照流程,養成紀律,該到哪階段就到哪個階段,絕無拖延也不連夜趕圖。當時信了耶穌,靠著對主的信心有不少幫助。還能關照新生,參加團契、舉辦山地服務…等等活動。
前文提及壓力最大的畢業設計,我得84分,是五年所做設計的最高分。每個同學自己選擇題目,我做的是”靜宜大學遷建案”,當時,靜宜是女子文理學院,我去找神父院長說,我幫你們改制為大學,校址就選在當時的台中港市都市計畫裡的”文事中心”,還鼓勵他們去爭取,果真他們也遷校成功,就在我建議的那塊地。(可惜,他們沒採用我的規畫圖,要不然…)所以,我的畢業設計按部就班,穩穩妥妥,早就請了三個學弟幫忙製圖做模型,等待評圖+畢典。
在1976年此時,約四月底吧,多數同學覺得設計做不完,無法按期在五月中評圖。於是,在男白宮召開班會討論,商請老師們延期評圖。所謂延期,就是沒學期成績,就是必須缺席畢業典禮。我覺得,這茲事體大!因我爸四個孩子只有我唸大學,供了五年,不能參加畢典,情何以堪?投票表決,只有兩票反對,所以延到六月再評圖。畢典建築系只有一個畢業生,是留級兩年的僑生。我呢,頂著老爸失望的眼神,苦中作樂,到處參加送舊活動。
大學五年,除了專業學習的收穫,最大的應該是信了耶穌,參加教會、團契,認識許多基督徒老師與同學。前文提及的王醫師,大我十歲,馬來西亞大學醫學院畢業,在新加玻開業數年,關了診所到東海當校醫,傳福音是主業,十年後去香港大學醫學院教書,經常去大陸訓練赤腳醫生。王醫師年近八旬,仍在西澳柏斯行醫。
另一位師父是物理系的李老師,對我影響最大,在人生生命重點啟發我走上又新又活的路。生物系的歐老師也是好朋友,下一篇將要寫歐氏伉儷的故事。
大學五年,細數主的恩典無數…大一當了幾個月的跆拳社教練,大一暑假認識了李老師參加查經班,大二暑假信了主耶穌,大三開始帶學弟妹,辦過無數聚會,在教堂幫彰師大的教授翻譯,在教堂辦過現代舞福音短劇,在教堂辦第一屆的民謠大賽,在銘賢堂辦過布袋戲公演,在陽光草坪辦過山地舞表演,還辦過溜冰表演…其實,也不枉那短短五年了!
照片是1976年騎摩托車去日月潭畢旅,我左邊是那次的女伴…都不知人在哪了…

2021年4月18日 星期日

葛飾北齋 熱:從漢清講堂 199: 葛飾北齋と浮世絵2017。到:NHK 歴史探偵「葛飾北斎 天才絵師の秘密」『知られざる北斎』

 葛飾北齋 熱:從漢清講堂 199: 葛飾北齋と浮世絵2017。到:NHK 歴史探偵「葛飾北斎 天才絵師の秘密」『知られざる北斎』

https://www.facebook.com/hanching.chung/videos/4389317167745723


199 葛飾北齋と浮世絵 2017-09-15 漢清講堂

https://www.facebook.com/hanching.chung/videos/4389317167745723


北斎館(ほくさいかん)は長野県上高井郡小布施町にある美術館。日本浮世絵協会加入施設。

概要[編集]

江戸時代末期に、高井鴻山の招聘により小布施に長期逗留した、浮世絵師葛飾北斎の肉筆画約40点を中心に、全体で約100点を展示、収蔵する。また浮世絵関連の書籍約3000点を所蔵する。

1966年モスクワサンクトペテルブルクで開催された葛飾北斎展で、小布施に関連した北斎の作品が展示され、世界的な評価を得たことを機に、国内の巡回展を経て、記念館建設の機運が醸成されたことにより、1976年11月7日に開館、1977年当時の町長を中心に財団法人を設立、1991年に増改築した。

開館以来、北斎研究の重要拠点としての役割を果たしている。館内には、肉筆舞台、企画、映像の各展示室と、研修室がある。出版物には「財団法人北斎館収蔵品図録」を刊行している。

展示作品[編集]

北斎が鴻山や小布施の町組の依頼に応えて制作した上町・東町祭屋台の天井画をはじめ、「柳下傘持美人」、「白拍子」、「八朔太夫」、「桔梗」、「菊図双幅」、「大竜巻」、「富士越龍」の軸装、「七小町」の八曲一隻屏風、書簡などがある。

東町祭屋台は竜と鳳凰の二面の天井画を持ち、ともに125cm2の正方形で、竜は紅の地色に描かれ、金箔が多用されている。鳳凰は紅、緑、朱、青、茶色などを用いて描かれ、翼を広げ、尾羽を画面全体を包み込むように伸ばし、金色の球体が散りばめられている。上町祭屋台は東町のものと同じ大きさで、桐板に北斎が創出した怒涛図の二面の天井画を持つ。ともに長野県宝に指定されている[1]

脚注[編集]

  1. ^ 「信州の博物館」p.54

参考文献[編集]

  • 『信州の博物館』 朝日新聞長野支局、1983年
  • 『長野県美術大事典』 郷土出版社 1986年
  • 『長野県の博物館』 長野県教育委員会 1989年
  • 『小布施・奥信濃の美術館』 郷土出版社 1998年
  • 『信州の花と美術館』 小学館 1998年



2021年4月9日 星期五

287 日本漢學家《青木正兒全集》簡介,以今冬心的藝術為主;北京風俗圖譜



1.日本東北大學珍藏近百年的117幅北京風俗圖片首度公開
2.日本著名漢學家青木正兒、內田道夫與中國著名畫師劉延年等強強聯合而成的圖譜,全面完整地介紹北京風俗,品味千年文化都城的古韻。
3.留存逐漸消失的北京風俗,重現近百年前的老北京人生活。
4.王冶秋、老舍感慨“中國也沒有這麼全的風俗圖譜”
5.揚之水作序推薦,並言“以圖譜的形式詳細介紹北京風俗,我所知道這是唯一一部”。
OKEYSHOES.COM
風俗圖譜(帶書匣版)精裝彩色版
彩色版,以一百餘幅彩畫廣泛地反映了民間傳統活動




  • 青木正児全集春秋社、1969-75、復刊1984ほか
  1. 『支那文学思想史・支那文学概説・清代文学評論史』
  2. 『支那文藝論叢・支那文学藝術考』
  3. 『支那近世戯曲史』
  4. 『新訳楚辞・元人雑劇序説・元人雑劇』
  5. 李白
  6. 金冬心之藝術・中華文人画談・歴代画論・鉄斎解説』
  7. 『江南春・琴棋書画・雑纂』
  8. 『中華名物考・中華茶書・随園食単』
  9. 『酒中趣・中華飲酒詩選・華国風味』
  10. 芥子園画伝』、訳著・神田喜一郎補訂解説


https://www.youtube.com/watch?v=LX5WGkQY1IM






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2020.7.11 我有許多話可以補充
首先是日本作學人全集的做法,很值得參考。
《青木正兒全集》的主編者是吉川幸次郎 (這是品質保證.....)--兩人的漢學路線稍微不同,然而,吉川在高中決心當"漢學家",特地去找青木談.....兩人對中國戲曲都有研究。
日本出版社發行全集/套書的方式也很可參考,通常會另外有附隨的小"報":請請熟人寫傳主,或請學者找舒發高見......等等,內容充實。印象深刻的是,《書道全集 2 漢》的"本卷執筆者"有"小川環樹",可是我在書中找不到他寫了那些。
多年之後,我讀小川 環樹 《論中國詩》1986/2009之後才恍然大悟:
第四章 《鏡銘的抒情成分——漢代文學的一個側面》"的解說,讓我們知道,文中所說的梅園博士作品,在《書道全集 2 漢》(此書台北大陸書局有漢譯),而小川 環樹 的文章,刊在隨書附贈的《月報》,這是日本出版社出版/發行《全集》的獨特方式,我在談《青木正兒全集》中說過。另外,鏡銘的抒情成分——漢代文學的一個側面是1958年稿,距今62年,不知學問推進多少? 


第二有感慨的是,『清代文学評論史』(岩波書店 1950),在1969年有中文版:

《清代文學評論史》( 台北:開明,1969)的序言:黃得時教授(1909~1999)1969年 61歲:發表〈清代文學評論史序文〉(青木正兒原著,鄭淑女譯,黃得時譯序文)(黃得時先生傳【蕭麗華撰述】。此文收入本書。
http://www.cl.ntu.edu.tw/zh_tw/Members/teacher12/-%E9%BB%83%E5%BE%97%E6%99%82-76959313
我在2020年元月才拜讀《清代文學評論史》( 台北:開明,1969),對於作者的淵博和譯者的文筆,都很佩服。我又自問,這樣優秀的作品,台灣為何沒書評?20幾年之後,我在某教授的專書中讀到幾則批評,不過我認為是小毛病。




梁容若(1904~1997)教授:陳淑女學士畢業論文談青木正兒著『清代文学評論史』之指導教授;主編的《書和人》月刊,是60年代起的重要學術圈 (東海的師長 (戴君仁、藍文徵、梁容若、陳兼善、莊喆....)、東海的學生,好幾位是該刊作者:本書收錄陳淑女翻譯三、四篇 〈評美國瓦特遜著《司馬遷傳》和《史記》〉、 〈論語雜感〉、〈 杜甫與李白的詩〉、 〈新五代史的文體特色〉等都刊登於,《書和人》,而 〈評美國瓦特遜著《司馬遷傳》和《史記》〉更是樑教授比較全面評介當時瓦特遜翻譯及著作之一部分。
由於其《坦白與說謊》等書由台灣開明書局出版,所以陳淑女最重要的《清代文學評論史》可能是他介紹的。
梁教授的選題有眼光,譬如本書的吉川幸次郎的〈杜甫與李白的詩〉,就遠比吉川幸收入其《中國詩史》的李杜交遊考好得多。梁教授在該文末對吉川幸次郎的介紹也很簡要(《書和人》有一篇介紹當時出版的《吉川幸次郎全集》,參考鄭樑生教授(1929-2007)〈吉川幸次郎全集〉,《書和人》,1972.11.11)。

讀者也可從陳淑女在〈清代文學評論史序文〉的譯後記中,了解梁教授的貢獻。


徐復觀教授(1903-1981):中國文學、政治思想史、藝術/美學史專家,報紙雜誌時論雜文家。可能是陳淑女的最重要恩師之一。著有《中國人性論史先秦篇》、《中國藝術精神》、《兩漢思想史》、《中國文學論集》、《中國思想史論集》等。

本書相關的「書信卷」,收三封陳淑女問候徐教授的信 (1961 年、1973 年、 1982 年)。介紹青木正兒著『清代文学評論史』(岩波書店 1950)給陳淑女。囑陳淑女翻譯「唐代的繪畫」(摘自〈隋唐之繪畫〉),刊登於《文星》。

青木正兒 金冬心1687~1763 胡適 周作人


青木正儿《中國近世戲曲史》《中华名物考》《琴棋書畫》《金冬心的藝術》試問有錢百萬河東客,可買松陰六月涼?

日本漢學家青木正兒全集簡介 https://www.youtube.com/watch?v=…



287 日本漢學家青木正兒全集簡介

日本漢學家青木正兒(1887-1964), 師事狩野直喜, 内藤湖南等京都支那學家, 一生著作豐碩, 留下全集十本。 HC特別擇其中文藝書畫等篇章, 簡介金冬心(揚州八怪之一)及與胡適等人書信往來, 期能一窺日本漢學家治學梗概。另介紹王.....



「白苧袍,青絲履,清旦山行松里許。松風為我一掃地,忽作水聲吹到耳。耳中生豪但願如松長,此身落落如松強。試問有錢百萬河東客,可買松陰六月涼?」




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30:52 NOW PLAYING 287



 明治二十五年の春、私は赤間関あかまがせき(今の下関)文関尋常小学校に入学した。たしか二年の修身の教科書に「九年母くねんぼ」という話が載っていた。田舎の子供が母から九年母を親戚に贈る使いを言いつけられて、途中風呂敷包を開けてみると九個ある、一個食べておいて、「八年母を差し上げます」と差し出したという話。私はなぜかその話が面白くて、今でもその挿図の子供の姿が眼に残っている。私は九年母が好きであった。味よりもあの香気が好きだったのである。
 あれから三十年、私は父の死後、京都に落着くつもりで下鴨にいおりを結んだ。名づけて守拙廬という。扁額は亡友本田蔭軒君の筆、刻は主人自刀である。少しばかりの空地に植える果樹の苗を数種取り寄せたが、なかに九年母三本を加えることを忘れなかった。それからまた三十余年、他の果樹は育たなかったり枯れてしまったりしたが、九年母二本と柿一本とだけは恙無つつがなく現存している。特に九年母は繁茂して、近来年々三百の実を付ける。初夏には王朝の花橘はなたちばなをしのばせる香が小園に満ち、冬にはトキジクノカクノコノミのように熟れた実が濃緑の葉かげに金色の光を放つ、これが主人自慢の種である。皮ごと竪に二つに割って、横に薄く切り、醤油を滴らして食うと、酒の肴に珍無類、仙気を帯びた異味となる。子供たちは酸っぱいと言って軽蔑し、あの香気の素晴しさを説いて、皮ごと食えと教えても決して食わない。なるほど実の酸っぱいのが玉にきずである。
 このことを山口である人に話して、京都の地味に合わないのだろうと言うと、その人が言う、「幾分そういう関係もあるでしょうが、九年母は蜜柑みかんのように甘くはありませんよ。それは子供の時食べたものは何でも旨かったように思われるのですよ。私の亡父が永らく東京に住んでいて、山口県の楊梅(ヤマモモ)は旨かった旨かったと言いつめておりました。母が、それは子供の頃おあがりになったからですよ、あんなもの旨いはずはありませんよ、と言っても、頑として聴き入れませんでした」と、大笑いしたことがあった。楊梅は私の育った下関の家にもあったし、塩水に浸して虫を出してから食べさせられたもので、なつかしい味の一つであるが、今は山口でもその附近でも一向めぐり会わない。苺や桜桃の流布した今日、あのような野味は駆逐されるのが当然である。九年母にしても段々なくなっていくというが、いくらひいき目に見ても、ネーブルの敵ではない。ただあの皮の香気と実の味とを兼ね備えたところだけは自慢できる。ネーブルの皮は香りはあるが苦くて物にならない。柚子ゆずの皮は香味を備えているが、実は酸っぱすぎて話にならぬ。九年母はやはり香味独絶する。
 子供の頃食べた郷土の味はなつかしい。下関に接近して彦島がある。今は海底トンネルの入口があったり、工場があったりして、昔の面影はないが、私の子供の頃は農村漁村が散在して、麦味噌の名産地、したがってまたその味噌漬は朝の茶漬の食膳を賑わす妙品として馬関バカン(下関)人に愛好された。「せきのお茶漬、出がけにあがれ」とは、口先ばかりのお愛想、人情の軽薄を諷刺した諺であるが、馬関の風俗は、通勤者の家庭はいざ知らず、われわれの家では朝は茶漬、昼に飯を炊くので、学校の弁当なんかも温かいのができると使いが持ってきた。それで少し贅沢なところでは、毎朝早く焼たての蒲鉾かまぼこが茶漬の菜に置いて歩かれた。それはともかく、彦島から娘っ子が「イギース、イギース」と触れて売りに来た。イギスというのは海藻の一種で、それで造ったトコロテンのようなものである。これを厚く切って酢味噌で食べると、すっぱりとして、磯の香がして好ましいものであった。このイギスの味噌漬ときたら珍中の珍であった。まるで羊羹ようかんのような色に漬っているが、塩からくて、一切れあれば一度の茶漬が食えたほどで、私は羊羹などよりこれを好んだ。
 彦島の北方に六連(むつれ)島がある。ここは下関名産雲丹うにの塩辛の発祥地である。小さな島であるが、どうした加減か雲丹が繁殖していて、漁村の副業に塩辛を造っていた。これに目を付けたのが「和田又」という海産物問屋で、全島の出産品を買い占めて、それにアルコールを加えて防腐し、瓶詰にして売り出した。商品として他国に出すには妙法であろうが、雲丹の味はさっぱり駄目になってしまい、しかも和田又が買い占めているために純粋な品が得にくくなったので、辛党であった私の亡父などは憤慨していた。時たま六連島の者がこっそり、今で言えばヤミで売りに来ると、父は喜んで買わせた。私はまだ雲丹の味を知らなかったけれど、色あいは良く、固形が多くて、今言うところのツブウニであった。和田又の子息は私と小学校で同級であり、家業を継いだはずであるが、あの家は今次の大戦で爆撃に遭うて、再起不能に陥ったという噂を聞いた。気の毒なことだ。
 さて雲丹は大人の食うものとして、われわれ子供に適したものにニイナといって、サザエに似てしかも小さな小さな貝があった。夏に家の近くの海で泳ぐ時、もぐっては石崖に付着しているこの貝を取るのが面白く、十数個もたまると持って帰ってでてもらい、木綿針の先で、ぐるっと廻して、ほじり出しては食べる。よい加減の塩気があって磯くさく、旨いというほどでもないが、楽しいことであった。泳ぐ時、底にもぐるとミルがいくらでもあるので、子供たちは取って遊んだ。何にするというでもない、ただ取るのが面白く、あとはそこらに捨てて帰るのである。後年京都に来て驚いた。刺身の妻にミルが付けてある。あんなものを食べるのかと、海に遠い京都の人を気の毒に思った。
 最後に私の最も好んだ海味を一つ付け加えるならば、それはメノクキである。「芽の茎」という意味らしいが、若布の生え始めに芽が五、六寸か七、八寸伸びて、まだ葉の出ない前の茎である。ゆえに完全には「ワカメのメノクキ」と呼んだ。これを適宜に切って三杯漬にすると、こりこりとして歯切れが良く、何とも言えぬ味のものであった。今食ったら、さぞかし酒の肴に珍妙であろうが、いやもう駄目だ。こう歯が悪くなっては。
(あおき まさる、京大名誉教授・中国文学、三六・七)




底本:「「あまカラ」抄2」冨山房百科文庫、冨山房
   1995(平成7)年12月6日第1刷発行
底本の親本:「あまカラ 8月号 第六十号」甘辛社
   1956(昭和31)年8月5日発行
初出:「あまカラ 8月号 第六十号」甘辛社
   1956(昭和31)年8月5日発行
入力:砂場清隆
校正:芝裕久
2019年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。






包浩斯群英(BAUHAUS, 1919-1933):簡介與導讀:Paul Klee transcends time.Lyonel Feininger (1871~1956) , Paul Klee (1879~1940)等作Postcards for the Lantern Festival

 Bauhaus 群英 ,Lyonel Feininger (1871~1956) , Paul Klee (1879~1940)等作Postcards for the Lantern Festival


https://www.facebook.com/hanching.chung/videos/4362586683752105



Wassily Kandinsky and Paul Klee, 1929




Photo by Lily Kleе

206 包浩斯群英(BAUHAUS, 1919-1933):簡介與導讀 2018-01-10 漢清講堂

https://www.youtube.com/watch?v=ywF5VAkBsxM


Is there beauty in technological progress? In the 1920s, Paul Klee thought so.
"Paul Klee. The Mystery Constructed" is a new exhibition at Munich's Die Pinakotheken exhibition hall, the pieces inspired by Bauhaus aesthetics yet radiating an element of mystery.
If you can't make it to Munich, here's our own gallery of some of the pieces being shown.



此書有中譯: 現代主義,遼寧教育出版社,2002
然而,錯誤可能不少,舉其第265頁之圖為例
Paul Cézanne (1839–1906),可知: "d. 1906", " d. 1891"等表示 該藝術家的 "死亡年"。
"Negro Sculpture" 翻譯成"黑人願望",不知所云, 可能原用 "Negro Vision"?
BAUHAUS的 "Dessau 1925" 誤為1914

*****Alfred H. Barr Jr's classic “Cubism and Abstract Art” graph drawing. 1936


http://hyperallergic.com/wp-content/uploads/2012/09/barr-graph-680.jpg





請參考:月前紀念我的同學陳珍吾兄的

1919年,德國人格羅佩斯(Walter Adolph Georg…
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懷念 陳邁先生(品格力量的歷史性影響) 羅時瑋。 陳邁《習築‧ 憶往》;轉林洲民 Citizen LIN「陳邁先生逝世兩週年紀念論壇-傳承與展望」的感懷日。謹在此陳述我對陳邁先生的特別的感懷。

今天,2021年4月9日,是「陳邁先生逝世兩週年紀念論壇-傳承與展望」的感懷日。謹在此陳述我對陳邁先生的特別的感懷。
我, 1983到1995年間,在美國紐約唸書作事,1995到2014年間,在台灣執業教學;2014到2018年間任職台北市政府都市發展局;2018年12月25日,重返仲觀聯合建築師事務所執業。
自研究所畢業至今,全時工作的37年期間,深知執業的成長過程,漫長且挑戰甚鉅,持續的推著巨石上山,就是我們這個行業最清楚的寫照。推著巨石上山,須要助力!
我,本人有幸,在這過程當中的最關鍵時刻,得到陳邁先生無形無價的助力,在專業上得以成長。我的團隊,也有幸在這過程中,得到宗邁建築師事務所費宗澄及陳邁兩位先生有形無價的助力,得以在經驗上得到助益。總述,我和我的團隊,感念陳邁先生及宗邁事務所一路走來,協助我們推著巨石上山。
2003年秋天到2004年的春天,宗邁事務所在智邦科技辦公大樓的競圖案,協助仲觀和原相兩個年輕的事務所成長。
2004年夏天到2014年的春天,超過十年,宗邁事務所在國立海洋科技博物館的設計監造案,協助仲觀和竹間兩個年輕的事務所茁壯。我深知,在我的建築執業過程中,陳邁先生對我的影響及支持,不會停頓的,仍然繼續持續!
建築人終其一生,就是持續在推著巨石上山的境界。台灣建築界在推著巨石上山的過程中,受到陳邁先生無形無價之助力者眾。陳邁先生的影響力,無遠弗屆!
文末,和大家分享兩個小故事;
其一:
本文第一張照片攝於2015年2月28日星期六下午在陳邁先生南港寓所旁的公園。照片中身著紅色運動服帥氣爆表的快步行進者就是陳邁先生。
我當時和陳先生打招呼,告訴他週末出來看社會住宅的未來基地(南港小彎社會住宅)是我的例行工作。陳先生說,那有機關首長週末自己出來看基地的;我回應:「陳先生,那是您一路走來教我們的建築人唯一態度!」。
其二:
2014年12月初,在台市府發佈新內閣名單的前一天晚上,我到陳邁先生南港寓所當面告知我即將到台北市府工作。陳先生給了我許多重要的提示及建議,其中重點:「擇善固執,全力而為!」。
當晚,陳先生,當面,直接告訴我,在我任職台北市都市發展局任內,由於我和他熟識,宗邁事務所不會出面承接任何建築設計業務。諸不知,那是38個專案,總金額七百餘億的社會住宅設計案。
以上,和大家分享陳邁先生作為一個無私的建築人以及全然的人格者之明鑑!
感恩!
珍惜!!
懷念在心!!!




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今天看到一張陳邁先生與漢寶德先生的照片。
兩位先生都有回憶錄,很好。



陳邁《習築‧ 憶往》





陳邁老師常鼓勵後進介紹好書,譬如說,他見過Lawrence Halprin ( 1916 – 2009) ,我們可以在Cities (1963) 中譯本 2000的書末,看到他很認真寫的文ˊ章;The RSVP cycles; creative processes in the human environment. (1970, c1969) 中譯本1983

  • Cities (1963) 中譯本 2000






5:25

Lawrence Halprin




郜瑩 連續卅年,皆會收到陳邁建築師寄給我以他們公司當年設計建築的作品,今年初陳先生過世了...


另外,當然也還包括從六○年代初就與費宗澄先生合作、致力於台灣建築品質提升的建築實務工作而不遺餘力,甚至一直到現在仍扮演著守護台灣建築界永續發展的長者、擔任台灣建築改革社初任社長的陳邁先生。台灣建築界在今天日漸開放並臻於成熟的境界(當然還有很多努力的空間),陳邁先生有著功不可沒的地位。




陳老師的回憶錄,質樸,可喜的還有人名索引;一世的恩人都提到。
我選談東海的1.5頁:建築教育的品築因素;高褆謹院長。

陳邁《習築‧ 憶往》pp.112~13









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34:58NOW PLAYING
282 懷念 陳邁先生(品格力量的歷史性影響) 羅時瑋














李宗盛賣北投老家!籌2億捐花蓮門諾建長照中心
記者關韶文/台北報導

愛永不止息!「大哥」李宗盛決定把北投老家捐售出來,售出的款項將成為臺灣基督教門諾會醫療財團法人的長照整合服務及人才培育中心建置專款,這項興建工程總經費估計約2億元,主要經費就是由李宗盛捐贈。

李宗盛笑說,他從15歲起,就在媽媽為他準備的愛之居所下成長,為了讓孩子有很安穩的成長環境、把一切最好的都給他這個唯一的兒子,李媽媽節衣縮食、標會,終於買下北投的房子,這是最初的愛。

李宗盛也在充滿愛的家屋裡,度過一切美好,包括青少年的躁動,成年後安穩落定。他的代表作包括《生命中的精靈》也在這創作完成,這棟老屋對他而言極具意義,象徵媽媽對他的愛,他感性地說:「哪有人在60歲的時候,還能待在15歲的臥房工作,所以我心中充滿很多愛,很感激我母親。」


照顧偏鄉,對長者的關愛,李宗盛從未停止,他透露對長者的關心和愛是由媽媽傳遞給他的,「母親在年老過程給我很多啟發,94歲很可愛,最常講的笑話和我職業都很不一樣,我進門一定會大叫她名字。」他每天都會抽空和媽媽交談互動,並轉換不同「職業」和她聊天,也會幫媽媽按摩捏腳,笑說:「剛開始捏腳,媽媽也會不好意思,現在換她會把腳翹起來,褲管拉起,自動讓我捏腳。」


門諾會醫療財團法人總執行長趙福厚代表門諾法人機構,向李宗盛致上最誠摯的謝意,感謝他的挺身而出,願意將母親給他的、陪伴他一生,至今仍在使用的房子捐出來,支持門諾興建長照整合服務及人才培育中心。

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第十八屆國家文藝獎得主- 建築家 陳邁



蔡英文總統褒揚令全文為:





資深建築師陳邁,軒秀瑋奇,果毅端方。少歲隻身來臺,流離寒躓,砥志礱習,卒業國立成功大學建築工程學系;嗣負笈歐美,獲麻省理工學院建築碩士學位,潛脩研幾,閎覽博練。遄返開辦建築師事務所,儲訓設計規劃人才,提攜培植秀異後進,尤以《曾文青年活動中心》、《國立自然科學博物館》、《高鐵嘉義站與臺南站》等經典作品稱詠,體大思精,自出胸臆。復長期於國內知名大學任教,創置「建築改革社」,力促校際學術合作,提升執業服務品質;豐厚建築教育內涵,推動專技考試興革,啟瀹陶鈞,默化薪傳;燒犀觀火,謨慮籌運。平居眷注重大公共建築,殫智國際競圖評審;援引先進合宜法規,參訂完善施工準則,卓識洞見,遠矚高瞻。曾獲頒中華民國傑出建築師獎暨建築金獎、國家文藝獎等殊榮。綜其生平,形塑臺灣建築文化典範,彰顯時代藝術美學價值,弘聲茂績,望尊泰斗;遺風遐緒,蓬島芳垂。遽聞溘然辭世,悼惜良殷,應予明令褒揚,用示政府篤念才彥之至意。










-----7.11
參加陳邁老師的紀念會:ALOHA 精神。會後請羅時瑋到漢清講堂作更深入的說明。

圖像裡可能有一或多人、大家坐著、表格、螢幕和室內





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一代「典範」與「人格者」
對於歷史,最令人珍貴的就是「典範」,對於社會,最令人崇敬的就是「人格者」,而陳邁先生就是這個時代的「典範」與「人格者」,這些不只來自於一個建築師的專業修為,更來自於一個人的廣闊胸襟與道德修持,成就厚澤人間無私的大我與大愛,這不只是人類持續賴予推動進步的寶貴力量,更是人類累積存在意義的真正價值。
我有幸在1977年東海大學建築系三年級時受教於 陳邁老師,印象深刻於 陳老師對建築設計的理性思維與自律的嚴謹要求,記得期末評圖後,我遲交了作品集報告,陳老師嚴厲責備了我,讓我渡過了一個心中忐忑的暑假,但是接到成績單後,才知道老師仍然給了我最高的成績,更讓我深刻體會了老師愛深責切的心情。直到不久前,已歷四十年後,老師才告訴我他其實一直保留著我學生時代的那本作品集作業,因為他當時即期待著,想看看當時這桀傲不馴的學生有一個什麼様的未來,有一天也許再將這個作品集返還給他,紀念這段師生情誼。
而沒有想到,在還沒來得及拿回陳老師這灌溉了他滿滿愛心為我保存的作業的時候,陳老師就突然離開了我們,心中除了萬般的不捨,更是籠罩著深深無助的茫然,因為,這些年來,陳老師除了成功的建築事業成為專業界的砥柱外,更成為建築界調合鼎鼐的大家長,帶領建築界突破專業的障礙,為了建立理想的專業環境,為了年輕建築師的未來,讓專業的潛能得以發揮,不虛擲國家的能量。
而今,波濤仍然洶湧,我們卻頓失倚靠,更惶恐於無人足堪懿德,𠄘擔如 您一般成就照亮黑夜的明燈,繼續指引大家前進的道路。
正因為,這一切「典範」的樹立,無關於專業的汲汲營營與成就,更無關於設計的琢鏤鑽研與表現,而是一個「人格者」所藴積的令人尊敬的偉大的道德品質與力量。
去年底,呂欽文建築師主持國立臺灣大學建築與城鄉研究所的系列講座,邀請了我發表一場演講:「臺灣大學人文大樓設計經驗—公民社會公共事務的運作下建築專業與本質的關照」,陳邁老師身體不適,卻全程參與了這場演講,給予了我無比的支持與鼓勵,讓我深受感動。之後,陳老師即開始了辛苦的化學療程,由於需要靜養,避免感染,更因為陳老師的低調,謝絕了所有人的探訪,也因此,這場演講成了陳老師在公開場合我們所能親炙他的最後一次出現的身影。
謝謝陳老師!無限的感恩!無盡的懷念!
在陳老師的告別式上,我與「建築改革社」徐岩奇社長及呂欽文前社長共同悼唸了一封信,並置入靈柩火化為永恆的印記:



「最敬愛的陳老師:
願您一路好走,
在天之靈永遠安詳!
大家都沒有想到
您會這麼突然的離開我們,
我們是如此的萬般的不捨,
也幾乎沒有做好任何準備。
但是,我們必須堅強,
您走過的道路,
您所樹立的典範,
我們必然跟隨。
就像班雅明(Walter Benjamin)所說的,
承擔起這微弱的彌賽亞的力量,延續歷史,
信守對先人託付的承諾。
我們必將不辱 您的託付,
守護 您未竟的理想,
不辜負 您的期待,
成為值得被 您託付的人,
成為值得領受 您的愛的人。
以此承諾,
讓 您得以安息!
安息吧!
最敬愛的老師!
———學生 簡學義代表 叩首 敬上 2019/04/22 」


  • Albert Yang 陳邁剛從美國來到東海帶我們大三的設計與構造課。每人都去臺北的虹橋書局買本 Ramsey/ Sleeper 的 AIA Graphics Standard.
    當時還做牆剖面模型。
    留言
  • 羅時瑋 喔,厲害!快半世紀前東海就玩成這樣了!這照片經典哦!